かきもの

放課後の別れ

「これ、返すよ」彼はそれだけ言うと、私にぷいと背を向けた。沈みかけた太陽が、彼の後頭部のすぐ横に居座っていて、眩しかった。私は安堵していた。こんな時に、私の心に浮かんだのは、まず、安堵だった。よかった。彼が後ろを向いてくれていて。きっと私…

モーセはプールに入れない

モーセはプールに入れない モーセはいつも体育座り 変なタオルでみのむしになって 準備体操をして プールに近付くと水面が割れる モーセはプールに入れない モーセはいつも蟻を焼く みんなの歓声遠い夏 腰洗い槽にすら浸かったことがない モーセはプールに入…

赤い糸

「わたしだって、恋がしたいわ。仕事ばかりの人生なんて、むなしいもの」終電に揺られて今日も帰路につく彼女は、深い溜息をついた。彼女は決して不美人でなく、むしろ美人といっていいほどの容姿に恵まれていた。そればかりか、天は彼女に二物を与えた。つ…

深夜の別れ話

高層マンションの一室、深夜。僕は彼女と激しく口論していた。「いい加減にしてくれ。もう、ここには来ないでくれないか。お願いだから」「いやよ、どうして。そんなのってないわ」こんなことを、何度繰り返したことだろう。疲労と嫌悪の色を濃くしていく僕…

喫茶店での二人の会話

「コーヒーが本当に美味しいのはね」 熱いカップを唇から離し、湯気の向こうの彼女はまっすぐに僕を見つめている。 「はじめの三分だけなんだって」そうかもしれない、と思った。 彼女と知り合って、もう二年になるだろうか。いや、三年かな……? とにかく、…

取得時効

あるマンションの一室で、若い男女が会話をしている。「取得時効は何年だったかな」「十年よ、有過失なら二十年」「では僕が、君を占有して二十年を過ごしたら、君は僕のものになるというわけだ」「そうね。あら、でもそれは私だって同じことよ。私が二十年…

月が綺麗ですね

「月が綺麗ですね」 荒涼とした地平を眺めながら、男は女にそう言った。 かつての文豪が、ある文章をそのように訳したことがある。彼は彼女を愛していたし、彼女もまた同じであった。 それを聞いた彼女はしかしつまらなそうに、足元の小石をコツリと蹴飛ばし…

世界の終焉

丸く大きな月の出た、明るい夜だった。 今日、世界が終焉を迎える。そういうことになっている。街の灯りは消え、車の騒音も聞こえない。静かな、世界の終焉にふさわしい夜といえた。 ある夫婦が、明かりを落とした家の窓から、夜空に浮かぶ月を眺めている。 …

銀行強盗

昼下がり。気だるい空気に包まれていた銀行内に、鋭い一発の銃声が響いた。 「動くんじゃねえ」 帽子を目深にかぶった一人の男が、火薬の臭いの残る拳銃を行員に突きつけていた。もう片方の手には、大きく口の空いた、ショルダーバッグが握られている。 「こ…

混線

夜。俺は暗い部屋に体を横たえて、目を閉じたり、開いたりしていた。時おり大きなため息をついたり、足をもぞもぞやったりしている。前の通りを行く車の音が、水の響きを帯びてきた。雨が降り出したらしかった。他に聞こえるものと言えば、自分の心臓の、規…

異星滞在記

男が車を走らせていると、森に降り立つひとつの光が見えた。不思議に思った男は車を止め、光の方へと近づいた。 つるんとした銀色の、大きな塊。どうやら宇宙船のようだった。音もなく、風もない。極めて高度な文明の持ち主に違いないと男は思った。息をひそ…

悪魔の煙草

アパートのベランダで、男は煙をくゆらせている。彼は愛煙家であり、今はちょっと珍しい煙草を吸っていた。 ある日の帰り道、男はいつものように煙草を買った。カードをかざし、ボタンを押す。しかし取り出し口から出てきたのは、見たことのない銘柄の煙草だ…

三月九日

朝、男は目を覚ました。カーテンの隙間から光が差し込み、コーヒーの香りがする。代わり映えのしない、いつもの朝だった。 「おはよう」 キッチンに立つ妻に声を掛ける。目玉焼きの焼ける音。 「あら、おはよう。今日も早いのね」 「うん、昨晩少し、仕事を…

ある依頼

薄暗い地下の階段を下ったその先に、男の事務所はあった。ある中年の紳士が、人目を気にしながら、扉に手を掛けた。 「ここか。例の、依頼を受けてくれるというのは……」 中年の紳士は、恰幅がよく、身に着けているものも高価そうだった。恐らく、企業の社長…

ボッ、という音。はじまりは、小さなアパートの小さな玄関だった。 夜の明けきらない時刻、雨音に混じる不思議な物音で、家の住人は目を覚ました。強盗でも入ったのだろうか。おそるおそる音のした方へ行くと、そこには開いた傘が無造作に転がっていた。 「…

債権債務

いつもと変わらない朝。今朝も手荒いノックの音が、部屋の中にうるさく響いた。 「おはようございます、お休みのところ申し訳ありません。今月分の支払いが、確認できませんでしたので」 債権者による取り立てだった。申し訳なさそうには到底見えない顔で、…

勝訴

最高裁判所小法廷。彼はある裁判の行方を、固唾を飲んで見守っていた。しかし彼は被告でも、原告でもなかった。関係者と言うことはできたかも知れない。彼は原告側を支援する立場で、裁判を傍聴していた。 彼の役割は、裁判の結果を、外で待つ仲間たちに伝え…

お人よしの幽霊

「あのう」 不意に投げかけられた声に、青年は立ち止まった。顔を上げると、電柱の下に一人の男が立っていた。切れかかった白熱灯にぼんやり照らされた顔は、顔見知りでもなければ、物取りでもなさそうだった。ただきまぐれに、声を掛けてきただけのような印…

風呂場の幽霊

ただならぬ気配と、胸騒ぎ。布団に入ったまま、僕は目覚まし時計を手繰り寄せた。 午前二時。言わずと知れた、丑三つ時だった。 そういった経験に全く乏しい僕ではあったが、今がその時であるのは直感的に分かった。 「うらめしや…」 その声は、風呂場から聞…

最愛の人

僕は愛する人を失った。しかしどんなに思い出そうとしても、彼女の顔が浮かばない。目や、口や、鼻。そのどれも僕の心を捉えて離さなかったはずなのに、彼女の顔にまつわる一切を、僕は思い出すことができなくなっていた。 「ははあ、それは心理的なショック…

隣の客はよく柿を

隣の客はよく柿を食う客だった。そして何より、息を飲むような美人だった。 「どうして柿を?」 彼女は答えず、ただこちらを見て涼やかに微笑んだ。ドキリとした。そしてなんだか可笑しくなって、アハハと馬鹿みたいに笑って頭を掻いた。この時すでに、僕は…

神の一部

「わしは神を作るぞ」 怪しげな装置がひしめく地下室で、年老いた博士が助手に告げた。 「ははあ、今度は毛生え薬のたぐいですか。確かに需要はありそうだ」 「違う、神だよ。GODだ。わしは神を作ろうと思っているのだ」 「神とは驚いた。確かに博士の頭脳は…

ある老人の回顧

私は十分生きました。これまで生きてきたうちには楽しいことも辛いことも、たくさんあったように思います。そんな思い出たちが、つい昨日のことのように思い出されるのです。私も、歳を取ったのかも知れません。 私には産みの親がありません。こんなことを言…

泡を作る男

あるところに、泡を作ることに心血を注ぐ男がいました。 彼はだれよりもそれを美しく、優雅に作ることができました。なにより珍しかったのは、それが純粋な、水から作られる泡であったということです。石鹸や、そのほかの物を一切使わずに作られる泡は、人々…

夜の短編喫茶「橋」

夜の短編喫茶、という催しがあります。Google+でとある方が主催されており、僕はそこに途中からこそっと紛れ込んでいるわけなのですが、あんまりGoogle+のことがよく分かっていないため、投稿を途中で消したり、投稿したやつの誤字が気になって直したら、そ…

そして彼は風見鶏になった

彼は最愛の人を失いました。 悲しみに暮れ、声も涙も出尽くした彼の心に唯一残ったものは、恐怖でした。次に待ち受ける、自らの死への恐怖ではありません。彼は、彼女を忘れてしまうことが怖かったのです。 彼は、彼女の亡骸の傍で、来る日も来る日も立ち続…

夜明けを一緒に

月のない、暗い、静かな夜だった。 「夜明けを見に行こう。僕と一緒に」 私の手を取ると、彼はそう言った。声が上ずらないように注意を払いながら、訊く。 「え…今から?」 「そうさ。今から出れば、ちょうど間に合うはずだよ」 彼の手は大きくて、暖かかっ…

力を持ち、失った男の話

顔が濡れてから、私は力を失いました。 それまで信じていた、唯一の拠り所と言ってもよい力を、私は一瞬にして失ってしまったのです。 私は途方に暮れました。それまで私が築き上げた総ては、力によってもたらされたものであると、そう思われたからです。力…

与作

与作は木を切る。 それがいつからだったか分からない。何の為にそうするのかすら、与作は忘れてしまった。知りたいと思うこともあったが、与作には義務があった。ある日は樫を、ある日は杉を。そしてまた今日も、乾いた斧の音だけが緑滴る山あいに物悲しくこ…