風呂場の幽霊
ただならぬ気配と、胸騒ぎ。布団に入ったまま、僕は目覚まし時計を手繰り寄せた。
午前二時。言わずと知れた、丑三つ時だった。
そういった経験に全く乏しい僕ではあったが、今がその時であるのは直感的に分かった。
「うらめしや…」
その声は、風呂場から聞こえてきた。意を決して覗き込むと、一人の女の幽霊が、風呂場のへりに座っていた。深い闇と湿気の中で、女は浮かび上がって見えた。表情は、濡れた長い髪に覆い隠されてうかがい知ることができない。膝から下は、例によって、ぼんやりと消えかかっていた。
「ひい」
声にならない声とともに、尻もちをつく。女も僕に気付いたのか、首の角度がゆっくりと変わる。
「うらめしや…」
腰が抜けてしまって、動けない。目線の関係上、今度は顔がよく見えた。どうやら若い女の幽霊らしい。年のほどは、僕と同じくらいだろうか。
「あなたは、だ、誰ですこんな夜中に…」
我ながら、間の抜けたことを言った。幽霊であるのは分かっているし、幽霊が夜中に出るのは道理だ。それでも相手は、律儀に答えた。
「私は幽霊です。この部屋のこの場所で、自ら命を絶ったのです。ある男の人に捨てられて…」
すこし事態が飲み込めてきた。そして何より、意思の疎通が可能であるようだ。それが分かると、僕の恐怖は急速に薄らいでいった。
「なるほど、それは分かりました。ですがお門違いじゃありませんか。僕はその彼ではない。人違いされているのなら、そちらの方へ行ってはいかがです」
「確かにおっしゃるとおりです、ですけど私、どうにもここから動けないようで…足もありませんし…」
そこで女はすうっと消えた。時計は二時半を回っていた。
それ以降、女は毎晩現れた。決まって午前の二時に現れて、二時半になると消えていく。丑三つ時の間だけ、風呂場に出現するのだった。
はじめのうちはまだ怖い気持ちもいくらかあったが、ひと月もしてみると、なかなか悪くないのだった。幽霊によると思われる理不尽な不幸は、何一つ思い当たらない。職場では延々と書類を作る毎日だったし、そして何より、僕にはすてきな女性がいなかった。深夜の30分間が、僕のかすかな楽しみになっていた。
「やあ」
「ふふ、こんばんは」
こんなやりとりに始まって、毎晩いろいろな会話をした。僕の仕事の話もすれば、彼女の生前の話もする。お互いの口調も、だいぶ柔らかくなっていた。それも無理のないことだろう。彼女がここに来るようになってから、もうすぐ3ヶ月が経とうとしていた。
ある日僕はいつものように仕事を切り上げ、夜に備えて早めに床に就いた。こうするのがもはや習慣になっていた。しかしその日は昼の疲れがあったのか、目覚めた時には2時15分を少し過ぎていた。
僕は慌てて飛び起きて、スウェットを脱いで身支度をした。ひげを剃り、髪を整え、風呂場の扉を慌てて開ける。彼女は顔をそっと上げ、こちらに気付いて手を振った。僕は整えたばかりの頭を掻きながら、言った。
「ごめん、待った?」
「ううん、今来たとこ」