赤い糸

「わたしだって、恋がしたいわ。仕事ばかりの人生なんて、むなしいもの」

終電に揺られて今日も帰路につく彼女は、深い溜息をついた。

彼女は決して不美人でなく、むしろ美人といっていいほどの容姿に恵まれていた。そればかりか、天は彼女に二物を与えた。つまり、勤め先であった商社において、彼女はめきめきと頭角を現したのだ。今や彼女は課長の地位を任されるまでになっていたし、それが災いしたのか、次第に彼女の周りの男性はどこか彼女を遠巻きに賞賛するようになっていた。


そんな彼女を、不安そうに雲の上から見守っていた者がいた。天使である。

「このままでは彼女、誰とも結ばれることなく一生を終えてしまうぞ。ようし、ぼくの腕の見せどころだ」

恋を司る彼は、彼女の悩みに応えるべく、出現した。

「お嬢さん、お困りのようですね」

「あら驚いた。あなたはキューピッドじゃないのかしら」

「その通りです。今からどこかへ飛んでいって、殿方の胸を、この弓と矢で射抜いてきましょうか」

「それもいいけど、知らない人と急に結ばれるのはごめんだわ。わたしは、わたしの運命の人と結ばれたいんですもの」

彼女は恋愛の経験がなく、どこか乙女趣味、ロマンチックなところがあった。

「ではこうしましょう、今からあなたの運命の人を教えてあげます。左手の小指をごらんなさい」

言われて目をやると、確かに、彼女の小指から、毛糸のような柔らかな質感を持った糸が、どこかへ向けて伸びているのが見えた。

「素敵ね、これを辿っていけば、わたしの運命の人と巡り会えるというわけ」

「その通りです。ちょうど明日は日曜日だ。さっそく出かけて、探してみるといいですよ」


次の日、彼女は少しだけおめかしをして、赤い糸を辿って歩いた。自然な出逢いを演出するには、これくらいがいいのだ。この先に、運命の人がいるんだわ。わたしの、まだ見ぬ恋人が。そう考えるだけで、いつもの通勤路も、違った景色を見せてくれるように思えた。

赤い糸は、やはり通勤路にそって続いていき、とうとう、彼女は勤める商社のエントランスに立っていた。

「あら、どうしたわけかしら。でも、不思議なことではないわよね。社内恋愛なんて、ありふれているけど素敵じゃないの」

エレベーターに乗り、糸は、彼女の任されている課へと彼女を導いた。いったい誰が、この糸の先にいるのだろう。私は誰と、結ばれているのだろう。彼女は胸を高鳴らせ、事務室の冷たいドアを押し開けた。

「あれ、課長じゃないですか」

他に誰もいない事務室では、今年配属になったばかりの若い男性課員が一人、私服で書類の整理をしていた。彼女は興奮を極力抑えた声で、努めてこう答えた。

「どうしたの。あなた、今日は日曜日よ」

「どうにも手際が悪くって……この有様ですよ。それに課長だって、どうされたんですか」

バツが悪そうに頭を掻く彼に微笑み返しながら、彼女は自分のデスクへと向かい、パソコンを立ち上げた。青白いディスプレイの光が、彼女の綺麗な顔を浮かび上がらせた。そうだ、わたしも明日の資料を、もう一度確認しておこう。


彼女の座ったその席には、赤い糸が複雑に絡みついていた。