ボッ、という音。はじまりは、小さなアパートの小さな玄関だった。


 夜の明けきらない時刻、雨音に混じる不思議な物音で、家の住人は目を覚ました。強盗でも入ったのだろうか。おそるおそる音のした方へ行くと、そこには開いた傘が無造作に転がっていた。

 「しばらく使っていたし、とうとうばかになったのかな」

 彼は胸をなでおろし、眠い目をこすりながら、開いた傘に力を込めた。閉じない。急に開いた拍子で、骨がゆがんでしまったのかも知れなかった。

 「これでは、場所をとって仕方ない。今日は雨だし、傘も張り切っているのだろうか……」

 ねぼけた頭で、彼はそんなことをつぶやいてみた。


 そしてそれは、いたる所で起こりはじめた。それぞれの家、学校、鉄道の遺失物センター。日傘も雨傘も、折り畳みのものであっても、同じ。デパートの傘売り場や傘を作る工場でも、示し合わせたかのように、全ての傘が開き始めた。

 人々は戸惑い、中には慌てて閉じようとする者もあった。しかしどんなに力を込めても、傘は決して閉じてはくれなかった。開いた傘たちは、場所を失い、やがて外へと溢れ出していった。


 地上でいっせいに開いた傘たちは、ぶつかり、重なり合い、場所を求めて空に昇っていった。閉じられ、束ねられて、保管されていた傘。それらが一斉に開いたとき、地上は、あまりにも手狭だったのだ。傘が世界の空を埋め尽すのに、そう時間はかからなかった。


 人々はただ呆然と立ち尽くし、その奇妙とも、幻想的ともいえる光景を見上げていた。

 「きれい……」

 赤や青、緑色のや、オレンジ色の。花柄や縞々模様の傘が、空を、色とりどりに覆い尽くしている。


 光と水の届かない世界で、人々は、その美しさに見とれていた。