ある依頼

 薄暗い地下の階段を下ったその先に、男の事務所はあった。ある中年の紳士が、人目を気にしながら、扉に手を掛けた。

 「ここか。例の、依頼を受けてくれるというのは……」

 中年の紳士は、恰幅がよく、身に着けているものも高価そうだった。恐らく、企業の社長かなにかだろう。しかしその表情は暗く、声もどこかおびえたふうだった。それも無理のないことかもしれない。普通の人間なら、この扉をくぐることなど、一生のうちに一度もないのだから。

 男は黙って事務机を立つと、紳士を、部屋の中央にある応接机に案内した。

 「誰をやる」

 男はさっそく切り出した。中年の男の、つばを飲み込む音がする。背広の内ポケットから、一枚の写真を取り出して言った。

 「こいつだ。ライバル会社の、会長をやっている。こいつのおかげで、わが社は倒産寸前だ。どんなやり方でもいい。とにかく早く、殺してくれ」

 男は、殺し屋だった。


 「事情なんかどうでもいい。報酬さえ差し出せば、俺は必ず依頼を受ける。そして一週間以内に必ず殺す。それが俺の仕事だ。しくじらないし、話が漏れることもない。報酬だって、そう高いものではないはずだ」

 「金銭としてはそうだろうが……しかし、やはりあれは、ないとダメなのか」

 「ダメだ。それが俺の、仕事を受ける条件だ。嫌なら、余所をあたってくれ」

 紳士は険しい表情をいっそう歪ませながら、もう一枚、写真をテーブルに差し出した。

 「……弟だ。わが社の取締役で、実によくやってくれている。今回の件でも、社のためならと……」

 「事情に興味はないと言ったはずだ」

 男は二枚の写真を受け取ると、懐にそれをしまい込み、席を立った。依頼は成立した。


 男は殺し屋だったが、他の殺し屋と違う点が一つだけあった。仕事を受けるにあたって、依頼者の身内を、あわせて対象にする。殺しの、代償というわけだ。それが依頼のルールだった。男が仕事を始めた時からそうしており、理由は、男にしかわからない。しかしそのルールのために、多くの者が依頼を躊躇し、男のもとに、必要ならざる仕事が舞い込まないのは事実だった。


 「お願いします。どうしても奴を殺さなくちゃ、いけないんです」

 まだ大学生くらいの、青年が依頼に来ることもあった。思いつめた表情をしている。写真には、軽薄そうな、青年と同じくらいの歳の頃の男が写っていた。もう一枚の写真には、彼によく似た年配の男性。なにか事情があってのことだろう。しかし男にとっては関係のないことだったし、報酬と代償がそろえば、必ず依頼を受けた。そして確実に実行した。


 それが、男の仕事だった。受けた依頼の数など、とうの昔に忘れている。ただ、その数の二倍だけ、男は手腕を発揮した。確かに言えるのは、それだけなのだった。


 春の近づいてきた三月のある日、男のもとを訪れた婦人があった。

 婦人は黙って椅子に座ると、一枚の写真を男に見せた。二人の男女が写った写真だ。写真の二人は、どうやら夫婦らしかった。常に持ち歩いているのだろう、色あせ、角は擦れてぼろぼろになっている。写真と一緒に、報酬の入った封筒も差し出された。

 「依頼、なのか」

 「ええそうよ。あなたは断らないと、聞いたから」

 婦人の心は固いようだった。男は写真を手に取りながら、ただ黙って聞いている。

 「そして代償は……」

 写真の二人を交互に見つめ、深いため息を吐く。震えながらも、どこか吹っ切れたような、決意のにじみ出た声で婦人は言った。

 「いいえ、どっちが代償でも、同じことね。もう、終わりにしましょう。あなたがこれ以上つらい思いをするのを、見ていられないから」 


 男は夫人の話が終わると、写真を懐にしまい込んだ。顔を見合わせた二人は、力なく笑いあう。

 依頼は、成立した。