お人よしの幽霊

 


 「あのう」


 不意に投げかけられた声に、青年は立ち止まった。顔を上げると、電柱の下に一人の男が立っていた。切れかかった白熱灯にぼんやり照らされた顔は、顔見知りでもなければ、物取りでもなさそうだった。ただきまぐれに、声を掛けてきただけのような印象。どことなく、ぞっとするような声だった。

 「なんですか、こんな夜分に。僕はこれから帰るところなのだ。とりたてて用もないが、あなたの相手をするほど、僕も暇ではない……」

 青年の言葉にはひとつだけ嘘があった。暇ではあったのだ。これから帰って本を読み、いい頃になれば布団にもぐる。それだけだった。普通であれば、多少話をしてやってもよいと思ったかもしれない。

 だが、普通ではなかった。普通ではないことに、気づいたというべきだろう。ぼんやりと照らされた男の足元、膝から下が、無かったのだから。夜に溶け込むように、彼の足はうっすらと消えていた。明かりの弱さによるものではないようだった。


 「そう、つれなく言わないでくださいよ。驚かしたなら謝りますから」

 足早に立ち去ろうとする青年を男は制した。

 「なにもあなたを呪い殺そうってんじゃありません。いや、実のところ、それすら忘れてしまったといいますか」

 「記憶喪失ってわけですか」

 「ええ、部分的に。私は何のためにここに居るのか、その一点についてだけ、そのようなのです。体も失くして、そのうえ肝心の記憶まで欠落している。ほとほと困っているところなのです。私は、何のためにここに居るのでしょう」


 面喰いながら、青年も答える。

 「そんなこと、僕に相談されても困ります。おおかた、生前の未練がおありなんでしょう」

 「そうでしょうか。確かに私は頼まれると断れない性格で、それでだいぶ苦労もしました。ですがおかげでそれなりの業績も上げましたし、妻と子供にも恵まれました。小さいながらも、念願のマイホームだって、手に入れることができたのですよ……」

 青年は変な顔をして聞いていた。知らない男に、しかも幽霊の男に捕まえられて、自慢話をされるとは。

 「あ、すみません。せっかく相談に乗っていただいているのに、こんなことを。とにかく、そういうわけです。未練とか、そういうことじゃ、ないと思うんだけどなあ」

 だいぶ口調がくだけてきている。青年はぶぜんとした。さっきは怖くて立ち去りたかったが、今は、別な理由で立ち去りたかった。


 「だったらきっと、その性格が災いしたんでしょう。頼まれると断れない、そんなところがね。今までの話をうかがって、僕に言えるのはこれくらいです。それじゃ」

 青年は適当を言った。そして言い切らぬうちに、背を向けて歩き始めた。ずんずん歩く青年の耳に、膝を打つような音と、男の声が飛び込んできた。

 「そうか、それだ。ありがとう、こんな私の話を聞いてくれて。あなたも私と同じくらい、断れない性格のようだ……」


 はて、ぽんと打つ膝は、なかったと思ったけれど……。青年がそう思った瞬間、世界は暗転した。暗闇の中で、あの男の声がする。

 「おかげで思い出しましたよ。私は、頼まれてあそこに居たんだ。そして、代わりの人を探していた」

 「代わりってなんです、どうしてこんな、なにを」

 「私と同じ、頼まれたらいやと言えない、お人よしをね」


 次に目を開けた時、そこはあの暗い夜道だった。切れかかった白熱灯が頼りなく明滅している。

 「そういうことか……」


 青年は膝を打とうと思ったが、彼の膝から下は、うっすらと夜に溶け込んでいた。