隣の客はよく柿を

 隣の客はよく柿を食う客だった。そして何より、息を飲むような美人だった。


 「どうして柿を?」


 彼女は答えず、ただこちらを見て涼やかに微笑んだ。ドキリとした。そしてなんだか可笑しくなって、アハハと馬鹿みたいに笑って頭を掻いた。この時すでに、僕は恋に落ちていたのだと思う。


 その日から、僕は決まって同じ電車に乗った。雨の日も、雪で電車が遅れた日でも。幸運にして彼女の隣に座れた日には、僕は舞い上がり、一方的に話しかけた。彼女はそれを、静かに頷きながら聞いていた。柿のことも何度か訊いたことがあった。しかし彼女はいつも、困ったように笑うだけだった。


 幾つもの秋が過ぎ、彼女は僕の大切な人になっていた。会うのは朝だけでも、電車の中だけでもなくなっていた。そしていつしか僕の心の奥底に、小さな傲慢が芽を出していた。


 「もう、やめにしないか。柿を食べるのは」


 ある日、僕は彼女に切り出した。


 「もういいだろう、僕は君になんだって食べさせてあげることができる。熱々のスープだって、分厚いステーキだって、なんでもだ。どうして柿を食べるのか、その理由は聞かない。だけど君にはもう必要ないはずだ。君には僕がいる。だから」


 自分の声の大きさに急き立てられるように、僕は一気にまくし立てた。


 「もうやめてくれ」


 彼女は、ただ黙って聞いていた。
 

 その日を境に、彼女はぱたりと柿を食べなくなった。僕はとても満足だった。親しく接しながらどことなく遠くにあった彼女に、初めて深く関与することができたのだから。僕は、とても誇らしかった。


 そして彼女は、みるみる痩せていった。頬はこけ、袖口からは手首の尖った骨が寒々しくのぞいた。ただでさえ細かった指は枯枝のようになり、揃いの指輪が隙間を作っていた。僕は何度も医者に行くよう勧めたが、彼女は笑ってかぶりを振った。


 僕は取り返しのつかないことをしたのかも知れなかった。明日にでも彼女に詫びよう。無理やりにでも医者に連れて行こう。点滴でもして、ゆっくり休めば元の彼女が戻ってくるに違いない。そう決心した夜、携帯が鳴った。


 初めて聞く、彼女の母親の声だった。




 隣の客は、よく柿を食う客だった。そして何より、息を飲むような美人だった。


 僕は今日も同じ電車の、同じ座席に腰を下ろす。鞄の中に、一つの柿を忍ばせて。