三月九日

 朝、男は目を覚ました。カーテンの隙間から光が差し込み、コーヒーの香りがする。代わり映えのしない、いつもの朝だった。

 「おはよう」

 キッチンに立つ妻に声を掛ける。目玉焼きの焼ける音。

 「あら、おはよう。今日も早いのね」

 「うん、昨晩少し、仕事を残してきた。早出して、片付けることにするよ」

 コーヒーを注ぎながら、妻が心配そうに言う。

 「このところ、毎日そうじゃない。お仕事も大事だろうけど、体にも気を付けてもらわないと」

 「ああ……」

 男は気の抜けたような、ふわふわとした返事をする。

 「それと、その寝ぐせ。きちんと直してから出かけてよ。恥ずかしい」

 このやりとりも、何度繰り返したことだろう。男は頭を掻きながら言った。

 「そうするよ……ところで、今日は何月何日だったかな」

 「三月九日よ。いやだ、まだ寝ぼけてるのかしら」

 男は、深いため息を吐いた。コーヒーをすすり、テレビの占いを見る。代わり映えのしない、いつもの朝。三月九日の朝が、今日もまたやってきた。

 妻との会話、コーヒー、寝ぐせ、占い、三月九日……。代わり映えがしないどころではない。男は、三月九日を繰り返していた。


 いつからこんなことになったのか、定かには覚えていない。夜になって目をつむり、朝起きてみると、同じ朝がやってくるのだ。はじめは、自分がおかしくなったのかと思った。医者にも診てもらった。医者はカルテに何やら書きつけながら、よくあることだと言って睡眠薬を処方した。こんなことが、よくあってたまるか。そう思いながらも何度か薬を飲んでみたものの、来るのは決まって三月九日の朝なのだった。結局、残りの薬はゴミ箱に捨ててしまった。


 電車に乗り、出勤する。辺りを見渡しても、全員が見知った顔だ。あのサラリーマンは次で降りる。あのOLは携帯をいじり、カーブでよろける。そして男は、折りたたんだ新聞を読んでいた。そこに書かれている記事も、誰が死んだ、株が下がった、どこの国では紛争が……すべて、見飽きた内容だった。


 「どうしたんだい、最近の君は、やけに沈んでいるじゃないか。何か悩みでも、ありそうな顔だね」

 会社に着くと、ロビーで同僚がそう話しかけてきた。なんでもない。昨日少し眠れなくて。こんな返事をして、お互い職場へ入っていく。そうして一日の仕事が始まることになっている。

 「なんでもない、昨日、夜更かしをしてしまってね……」

 「そうか、君のことだ、きっと仕事でも持ち帰っていたのだろう。無理はしないことだよ」

 そういって立ち去ろうとする同僚を、男は呼び止めていた。

 「ちょっと、いいか」

 「なんだい、やっぱり何かあるんじゃないか。聞こう、コーヒーでも飲もうか」


 缶コーヒーを握りながら、男は切り出した。

 「こんなことを言うと、変に思われるかもしれない。悩みと言うのも、相談しても、君が扱いに困るようなことかもしれないんだ」

 「滅多なことを言うもんじゃない。同期じゃないか。ぜひ聞かせてくれ。話すことで、気が楽になることだって、あると思うしね」

 「じゃあ言うが、笑わないでくれよ……。毎日が、繰り返しなんだ。同じことを繰り返していて、どうやってもそこから抜け出せない」

 同僚は、いたって真面目に聞いている。

 「ははあ、平和で平凡な日常に、飽きてきたというところかな。僕も似たようなことは感じることがあるよ。このところ働きづめだし、君には子供もないだろう。僕もそうだけどね。なにか、刺激がほしいという気持ちの表れなんじゃないか。分かる気がする。疲れているせいもあるだろう、どうだい、ちょっと休暇でも、申請してみたら」

 「そういうことじゃないんだ。もっと現実的な問題として……いや、非現実的な話ではあるんだが、三月九日なんだ」

 「三月九日が、どうかしたのかい」

 男の声は、少し大きくなっていた。

 「ずっと、三月九日なんだよ。今晩布団に入って、明日、目が覚めるだろう? そうすると、また、三月九日になっている。こんなことって、あると思うかい」

 男は自棄気味に笑った。同僚は、キョトンとして聞いている。宇宙人でも、見ているような表情。そして眉間を抑えたり、首を傾げたりしている。なんと答えてよいのか、迷っているようだった。

 「医者も、君と同じようなことを言っていたよ。ゆっくり寝ろ、ストレスのせいだとね。しかし僕にとっては、寝ることだってストレスだ。起きたらまた、三月九日が来るのかと思うと、毎日たまらないんだよ」

 「君は、やはり疲れているようだ……」

 同僚は心底心配そうな顔になり、眉をひそめながら男に言った。


 「明日が三月九日なのは当たり前だろう。今日が、三月九日なのだから。そんなこと、小学生でも知っている。昨日も、今日も、そして明日からもずっと、三月九日だ。それをおかしいというなんて、君は、本当にどうかしてしまったんじゃないか……」