最愛の人

 僕は愛する人を失った。しかしどんなに思い出そうとしても、彼女の顔が浮かばない。目や、口や、鼻。そのどれも僕の心を捉えて離さなかったはずなのに、彼女の顔にまつわる一切を、僕は思い出すことができなくなっていた。


 「ははあ、それは心理的なショックによるものですな。人はあまりにつらい出来事に直面した時、そういうことがあるものです。気になさってはいけません。じきに思い出すでしょう」


 神経科の医者は、カルテに何やらミミズを書き込みながらそんなことを言った。そんなものかと思った。


 しかし一向に、僕は彼女の顔を思い出すことができなかった。毎日のように僕は、夢に見る彼女の手を取った。彼女は恥ずかしそうに、そして嬉しそうに僕の手を握り返した。しかしそうする彼女の顔は卵のようにつるんとしていて、 白く塗りつぶされていた。




 それを繰り返すうち、僕は歳をとった。彼女の顔を思い出せないのも、医者の言うように心理的なショックによるものなのか、僕の加齢によるものなのか、もはや分からなくなっていた。もう、どちらでもよいのかもしれなかった。いずれにせよ、僕はあまりに年老いていた。



 雲の上でも、僕は彼女を探し回った。ただひたすらに歩き回り、先にここを訪れたであろう彼女を探した。


 「私は最愛の人を先に亡くしましてね。思うにこのあたりに居ると思うのですが、お恥ずかしい話、顔が思い出せんのです。お心当たりはありませんか」


 こう訊くのも、もう慣れたものだった。そしてある日僕は、同じ背格好の女性を見つけた。彼女はあちらを向いて、誰かを探しているようだった。


 「私は最愛の人を先に亡くしましてね。思うにこのあたりに居ると思うのですが、お恥ずかしい話、顔が思い出せんのです。あなたくらいの歳の、あなたくらいの背格好をした女性です。お心当たりはありませんか」


 彼女はぴくりと肩を震わせた。そしてこちらむきになりながら、はにかんだ声で言った。


 「あなたの言う最愛の人は、こんな顔じゃありませんでしたか?」


 彼女の顔には、目も、口も、鼻もなかった。