悪魔の煙草

 アパートのベランダで、男は煙をくゆらせている。彼は愛煙家であり、今はちょっと珍しい煙草を吸っていた。


 ある日の帰り道、男はいつものように煙草を買った。カードをかざし、ボタンを押す。しかし取り出し口から出てきたのは、見たことのない銘柄の煙草だった。何やら不思議な文字が書いてあり、右から読むのか、左から読むのか、そもそも文字であるのかどうかすら、男には分からなかった。

 「なんだろう、新手のキャンペーンか、なにかだろうか」

 首をかしげる男の様子を、電柱の上から盗み見ていた者がいた。悪魔だった。悪魔は、にやにやと笑ってつぶやいた。

 「さて、今度の男はどう楽しませてくれるかな。効果のほどは、すぐに気づくだろう。それを知った時の、人間の喜びよう。そして湧きあがる欲望、浅はかな知恵……」

 実はその煙草、吸っている間だけ時間が止まる、魔法の煙草。それを手にした者の末路を眺めるのが、悪魔のひそかな楽しみであった。

 「この前の奴は、銀行強盗をやろうとして、時間が足りずに捕まっていたな。女をどうこうしようとして、失敗した奴もいる。さあ、煙のようなはかない人生を、せいぜい楽しむことだ……」


 家に帰った男がしげしげと箱を手にしていると、目ざとく見つけた男の妻が眉をひそめた。

 「まったく、煙草なんて早く止めればいいんですよ。税金だって高いんだし……あ、ホラ、ちゃんとベランダで吸って下さいね」

 「分かってる、分かってるよ」

 男はすごすごベランダへ退散し、ひとつ溜息をつくと、箱から一本を取り出して、いつものように火をつけた。

 煙を吸い込むと、火はチリリといい音を立て、ずっしりとした重厚な味が肺いっぱいに広がった。うまい。鼻に抜ける甘い香り。余韻は夜の闇にゆっくりと溶け、頭の奥がじんとする。一分が一時間にも感じられるような、時が止まったような感覚だった。

 うっとりとしながら男がベランダから戻ると、妻がきょとんとしている。

「あら、もう吸い終わったの」

「ああ、素晴らしい味だったよ。こんな煙草は、初めてだ。なんという銘柄だろうか……」

 男は、いたく気に入ったらしかった。その足で自動販売機に戻り、何箱も、何十箱も買いだめる。悪魔もそれくらいと思って、サービスをした。どうせすぐに回収できると踏んでいた。


 それから毎日、男は魔法の煙草を、毎日吸った。一日一本。仕事から帰り、疲れた後の一服。魔法の効果はその都度出現したが、夜のベランダで動く者はせいぜい、星のまたたきくらい。男はじっくり煙を楽しみ、何物にも邪魔されない時間を堪能し、部屋に戻った。男がそれを知ることは、絶対にないのだ。


 ある朝、隣の部屋の夫人が、男の妻に話しかけた。

 「お宅の旦那さん、煙草やめたの。うちの旦那が、ホタルが一匹減ったって、悲しんでたわよ」

 「だったら助かるだけど、相変わらず。確かにいやに吸い終わるのが早い気もするけれど。そうだ、うちの旦那こそ、お宅の旦那さんとめっきり合わなくなったって……」


 男は今日も、夜のベランダで煙を吐いている。時の止まったような、夜のひととき。悪魔の悔しそうな顔などつゆ知らず、男はベランダでうっとりとした目で、煙の行方を追っていた。

 「ああ、うまいなあ。このひとときが、俺は本当に幸せなんだ」