混線

 夜。俺は暗い部屋に体を横たえて、目を閉じたり、開いたりしていた。時おり大きなため息をついたり、足をもぞもぞやったりしている。前の通りを行く車の音が、水の響きを帯びてきた。雨が降り出したらしかった。他に聞こえるものと言えば、自分の心臓の、規則的な音くらい。つまり、俺は眠れないでいた。

 一時間ほどそうしていただろうか。ふと台所の方から、水の流れる音を聞いた。正確には、水道から水の出る音だった。

 不思議に思い寝床を這い出すと、台所はこうこうと明かりがついており、そこに見知らぬ青年が居た。コップに水を注いでは、のどを鳴らして何杯も飲んでいる。

 「おい、誰だあんたは。人の家に勝手に……いったいどこから」

 俺は身構えながら、青年に相対した。戸締りは、したはずだ。ベランダから侵入したのだろうか。ガラスの割れる音はしなかったはずだが……。いっぽう青年はというと、ちらりと俺を見たものの、ふたたび水を飲んだりしている。まるで、自分の家に居るかのようなふるまいだった。

 携帯電話を掴みとり、しかるべき番号を呼び出している間も、青年は我が物顔で水を飲み続けていた。そして大きなあくびをひとつすると、青年は、あとかたもなく消えてしまった。

 耳に当てた電話の相手方が、何度も呼びかけてくる。間違いだったと伝え、詫びる。一言二言文句を言われたが、ただ謝るしかなかった。まさか目の前の男が、霞のように消えてしまったとは言えない。言ったところで、信じてはもらえないだろう。夢でも見たのではないかと言われるのがおちだ。この俺ですら、信じられない。

 しかたなく、俺は寝室に戻った。目は冴え、ますます眠れそうにない。


 どれくらい目を閉じていただろう。すると今度はとたとたと、誰かが廊下を走る物音がした。歩幅が小さく、慌てたような走り方。小さな子供の足音に思えた。

 溜息をつきながら廊下に出ると、三歳くらいだろうか。寝間着を着た男の子が、もじもじしながら立っていた。

 「なんだって今夜はおかしなことばかり……ぼうや、どこから入ってきた」

 彼は答えず、ただ困ったような顔でこちらを見ている。その手は、股間を強く押さえていた。

 「……トイレか?」

 男の子は頷くと、その場で飛び跳ねるように足踏みをした。切羽詰っているらしい。詳しいことは後で聞こう。俺はとりあえず、男の子を便所へ案内した。ズボンをおろし、座らせる。男の子はホッとしたような、恍惚の表情を浮かべた。

 一度外に出て、しばらく待つ。ちょろちょろと、小便の音が聞こえる。まったくいい気なもんだ。親を見つけて、何か言ってやらなければ気が済まない。こんな深夜に、子供を一人でほったらかして。それも、見ず知らずの男の家にだ。まったく、非常識きわまりない。いや、しかし先の男のこともある……。

 もういいだろうと扉をあけると、やはりというか、なんというか。そこには誰も居なかった。

 
 そのあとも、様々なものが俺の家に現れては、そして消えていった。

 若い女が天井を突き抜けて階下へ落ちていく、老人が俺の布団で眠っている。刑事風の男が令状を手に物置をあさっていったりもした。人間だけではない。犬、猫、カラス。植物まで出現した。午前二時くらいだったろうか、床一面が夜風にそよぐ草木で覆われたのだ。夜露と土の、甘いにおいがした。


 当然ながら、とても眠るどころではなくなっていた。俺は、煙草に火を点けてベランダに出た。すると目と鼻の先に、大きな月が浮いていた。頬ずりできそうなほど近く、目をつむりたくなるほど明るい満月。雨は相変わらず降っている。厚く低い雲は、明け方の薄明るい空一面を覆い尽くしていた。今頃この月は、あの雲の上で寝息を立てているのだろう。

 「まったく、いい気なもんだ。こっちの身にもなってほしいよ」

 目を瞬かせながら、俺は煙を細く長く吐いた。かわりに雨で冷やされた、朝の空気が体に入ってくる。

 「あの子供、大丈夫だったかなあ。そろそろ目を覚まして、青い顔をしてるんじゃないだろうか」