猫轢かれないでほしい

最近、轢かれた猫を見なくなった気がする。

昔はめちゃめちゃ轢かれてたじゃないですか。じゃないですか、っていうのもあれですけど、僕は田舎に住んでいたので、その時分はバンバン轢かれてましたよね。轢かれているのをよく見た、猫。まあ猫だけじゃなくて狸とかイタチも轢かれてましたけど、ああ、そういえばうちの母親が軽自動車を運転している時、少年の僕は助手席に乗っていたんですが、その時、道路を横断していた猫を踏んたことがあったんです。うちの母親が猫踏んで。猫踏んじゃって。そんでバッ! っと後ろを振り返ったら、踏まれた猫がすごい速さで残りの道路を完走していた、ということがありました。

生きてたー! ってあの時はすごいビックリしましたけど、轢いといて、すごいビックリしましたけど、そういうのは稀な事案で、とにかく昔はバンバン轢かれて、バンバン死んでた気がするんです。

それが最近あんまり見ない。轢かれた猫、あんまり見ないんです。これはもしや、猫、どんどん轢かれなくなっているんじゃないか。

考えてみればそうですよね。轢かれやすい、道路跨ぎの縄張りを持ちたがる猫や警戒心の薄い猫、活動的すぎる猫は真っ先に轢かれてしまう。彼らは轢かれやすい。死にやすい。残るのは、小さな縄張りで満足できる草食的な猫だったり、警戒心の強く賢明な猫だったりするわけです。そして、そういう猫ほど生き残ってたくさん子孫を残していく。轢かれにくい遺伝子が、どんどん濃くなり受け継がれていくことになるわけで。

あー! 絶対そう! 絶対そうだわー! 自然淘汰ー! 自然淘汰説ー! って一人で興奮していたんですが、あの、あれだわ。轢かれた猫見ないの、多分僕が単純に最近車にあんまり乗らなくなったからだわ。電車通勤になって。電車通勤になって、最近あんまり車に乗らなくなったからだと思う。休みの日に、バイパス走るくらいだもんなー。

変わったのは猫でなく、僕だった。多分、猫は2012年の今でも元気にバンバン飛び出してるのであろうな。元気にバンバン飛び出して、バンバン轢かれているんだと思う。あいつらアホだから。でもできれば轢かれないでほしい。僕は猫が好きなんだ。

世界の車窓から

世界の車窓から、ってあるけどさあ」

「テレビ番組のね」

「どこへだよ!? って感じよな」

「え?」

「いやだからさ、世界の車窓から、どこへだよ!? って、感じしない?」

「しない」

「してよ」

「あれ別にどこからどこへ…みたいなことじゃないと思うよ、そういう『から』じゃないと思うよ」

「そうなの」

「多分…」

「なんか悲しくなってきちゃった…」

「ごめん」

「俺ずっと、世界の車窓から、どこへ行くんだろうなー、って、思ってたよ…そうして、生きてきたよ俺は…」

「なんかごめん」

「走る世界の車窓をグイッと上にあげて、隙間からこう、身を乗り出すイメージでさ…」

「危ないよ、でもごめん」

「もう、あれだわ。旅に出るわ」

「そんなに」

「旅に出て、世界のいろんなところを見て回るわ…船で…」

「そこは電車にしろよ」

永遠の美

漫画「蟲師」に若い女の体に首を接げながら何百年も生きている桜みたいな美人が出てくるんですけど、あの、全然話変わるんですけどうちの台所洗剤ジョイなんですよ。除菌もできる。除菌もできるタイプの、ジョイなんですけどね。除菌のできないタイプのジョイはないんですけど。

使ったことある方はお分かりかと思うんですけど、ジョイの詰め替え用ってこう、蓋を取ると口が、ドボドボでるようになってるんですよ。そりゃそうなんですけどね。詰め替え用ですから。でも詰め替え用ったって、そのまま使いたいじゃないですか。いちいち詰め替えるの面倒だし、しかもあれ二回分入ってるんですよ。お得!

お得じゃねえわ。いや、お得なんですけど、お得なんですけど面倒じゃないですか。一回こう、ドボドボ、と移し替えて、また蓋して、次また無くなった時、「あれ、この詰め替え用、まだあったんだっけな? うん?」みたいなの、めんどいじゃないですか。些細なことだけど、こういう生活のノイズは極力減らしたい。

んで僕気付いたんですけど、詰め替え用でない普通のタイプのジョイくん、あのチュッチュ出る注ぎ口、根元から外れるようになってるんですよね。で、詰め替え用の蓋の径も、よく見たら同じじゃないですか! これはつまり……!?

詰め替えしなくても、注ぎ口だけ付け替えればOKじゃーん!

分かります? 逆転の発想というか、詰め替え用の方の新しい体に、古いジョイくんの首だけ接げてやると、面倒な詰め替え作業や半分残ったやつの保管なんてしなくていいんです。これ、最高だと思うんですよね。っていい気になってますけど、みんなやってるのかな。やってますか? みんな―! やってるかーい!

まあ、いいんですけど、うちの洗剤詰め替え事情はいいんですけど、何が言いたいかってこの作業をするたびに、冒頭「蟲師」のあの女性が脳裏をよぎる、という話でした。

ちなみに「蟲師」だと、それやってた男は死にましたね。

草育て その2

以前、我が家で育てている謎の草のことを書いたことがある

何となく手に入れて何となく育てているうちに、何となく情が移ってしまったこの草。もう2年近く育てていることになる。最初は2枚だった葉っぱも今や数えきれないくらい(30枚はあるかも)に増え、当然成長に伴い植え替えもした。2回。

ところでそんな愛着あるこの草、ずっと名前を知らないまま育ててきた。土に入れてやって水を遣ると葉っぱが元気になる。寒い日に外に出しておくとしおれる。部屋に招いてやると元気になる。直射日光を当てるとバテる。そのくらいは育てながらなんとなく分かってきて、それ以上の情報は必要ないと思っていた。名前など「草」で十分だった。僕は草を育てているのだし、出来れば今後もずっと、この草を育てていきたいなあ、と漠然と思っていた。

ところが、である。先日なんとこの草、花を咲かせた。白くて葉と同じくらいの花びら一枚の中に、ひねり揚げのようなめしべ(?)があった。

この時の僕の気持ち、お分かり頂けるだろうか。文語で書いてきたのが一気に口語になっちゃうくらい嬉しかったんだよね。嬉しかった。快哉を叫んだ。「快哉を叫ぶ」の挿絵にしてもらいたいくらい、僕は嬉しかった。

その時のことはいくらかtwitterでも書いて、その中でも「ただの草なのだし、名前を調べる予定はない」といったような格好よいことを言っている。

白状すると、ウソである。めちゃめちゃ調べたかった。そもそも、それまでも何度か調べようと思ったことはあった。しかし情報が少なすぎて(緑の葉っぱしか手がかりがないからね)断念していた経緯があった。

そこにきての花、である。格好よいことトゥーイートしておきながら、僕は光の速さで検索を掛けていた。「観葉植物」「白い花」「景品」「育てやすい」ありとあらゆる検索ワードと、画像検索を駆使して僕は一心不乱に調べた。だって、調べたかったから! 偽り続けた恋心を爆発させた文学青年のように、僕は一心不乱に検索をした。

そして、ついに明らかになる彼(彼女?)の名前。

スパティフィラム

一つの区切りがついた音がした気がした。二年前、僕は謎の草をもらって、適当に育てて、花を咲かせて名前を知った。彼は名前をスパティフィラムと言った。第一部完。

そして僕はインターネッツの知識の井戸で、諸々の知識(彼はサトイモ科であり花言葉は「包み込むような愛」である。花に見えた白い部分は葉であり、本当の花はひねり揚げの部分であった、等々)を得たのであった。動画とかも見たよ。youtubeでね。youtubeで育て方の動画を見て、「高く評価」したりもした。

僕はこれから、スパティフィラムを育てていく。

眼鏡の壊れる夢

眼鏡の壊れる夢を見た。こう、ツルの根元というか、ちょうど折りたたむ時に稼働する部分のネジが取れてしまって、本体とツルが外れてしまった。

それを直そうとするのだけど、心のどこかでは何故か直らないだろうなと分かっていて、それでも、眼鏡と外れたツル、ネジを一旦自分の毛布の上に置いた(夢の中でも、寝ているのである)。

案の定そのままうとうとしてしまい、寝返りをしたときにネジがどこかに行ってしまう。慌てて飛び起きて、なぜか木工用ボンドで一生懸命直しはじめるのだけど、その時ピンとひらめく。

  1. 「体の一部が壊れる夢は夢分析的にはどうなのだろう、何かあった気がする」
  2. 「眼鏡は体の一部と言えるぞ、交通事故で眼鏡壊れたら人身だしな」
  3. 「よし、この二つを面白い目で見て、ブログを書こう」

夢、ここまで。

夢分析なんかは実際全然興味がないんだけど、「この二つを面白い目で見て」のところはとても面白かったんですよね。いい夢見たな、と思った。なぜなら僕はこういう思考をしょっちゅうするからで、まず1と2が「ひらめき」です。ここは運の要素が強い。で、そういうのを拾った時に、ちゃんと僕が気づけば、物事は3に移行する。いじくり倒して(これが「面白い目で見る」)ブログなりなんなりに書いたりする。

こういう一番よくやる思考の過程を、夢の中で綺麗に、改めて意識できたのが面白かった、というお話でした。

ちなみに夢分析の眼鏡ネタは案の定というか、残念ながら、あまり面白くならなかった。

不思議な話をしよう

僕が経験した怖い話、というか不思議な話がひとつある。今夜は、それについて話そうと思う。少し長くなるし、あまり怖くはないから、読みたい人だけ読んでくれたらいい。

それは僕が小学生、多分八歳くらいかな、の時の話なんだけれど、当時うちの実家は山の中の峠のあたりにあったんだ。本当に山の緑の圧倒的な所でね。蛍は飛ぶし、雉が鳴いたり蛇が出たり、いわゆる、ど田舎というやつ。

それで、そう。確か今くらいの、お盆の時期だったんだ。お盆といえば、今は少し下火になったけど、心霊もののテレビ番組なんかたくさんやっていたんだ。そういうのを見て、子供なら誰しも、怖がりつつも興味を持ったりするんじゃないかと思うけど、僕は幾分、その興味が強かった。だから、母親に頼んで、峠にある神社に、車で連れていってもらうことにしたんだ。

この神社、何が祀られているのか未だに僕は知らない。社務所もない小さな神社で、普段だれが管理しているのかもよくわからないんだ。そういうちっぽけな、古びた神社だから、肝試しにはぴったりだと思ったんだね。もちろん、夜に行く勇気はなかったし、そんなの絶対許してもらえないのは分かっていたから、あれは確か、午後の2時くらいだったと思う。

峠の細く曲がりくねった登り道の、途中にその神社への入口がある。そこに車を止めて、歩いて階段を上っていくと、境内に入る。階段と言っても、砂利敷きの、一段一段の幅が妙に広くて登りにくいやつだった。それを、子どもの足で、えっちらおっちら登っていくわけさ。

母親はそもそも結構霊感があるというか、そういうのに敏感な人で、車から降りたあとも自分は行かないと言ってその場に留まった。馬鹿なことしてないで、さっさと戻ってきなさいとも言っていたね。そもそも、乗り気じゃなかったんだ。僕のわがままに、無理矢理付き合わせた格好だから、僕もへいへい従って、すぐ戻ると言った。

で、階段。結構な長さがある。峠の山中にある神社だし、登りが急なのも想像してもらえると思う。なかなかしんどいんだ。疲れを感じながら登る。その途中、僕は一度、後ろを振り返ってみたんだ。誰もいなくなっていたりしたら、それこそギャー! だからね。「後ろを振り返ると」ってのは、いいドキドキの装置だってことも、無意識に分かっていたのかもしれない。まあ、それはどちらでもいいんだ。不安と、興味とで、僕は後ろ、階段の下を、振り返った。

そこには、やっぱり母親がいた。当たり前だね。当たり前だけど、それですごくホッとした。僕は目が悪いから、母親の顔まではよくわからなかったけど、僕のことをじっと見てくれているんだろうな、というのは分かった。もしかすると、怒っているのかも知れないとも思ったね。だからさっさとすまそうと思って、小走りに境内に入って、賽銭も投げずに手をパンパンして、社の裏もぐるっと眺めて。特に興味の引かれるものはないのを確認して、慌てて来た道を駆け下りたんだ。

車に戻った僕は、興奮と疲労とで息を切らしながら、へへー、何もなかったですー、なんて話をへらへらしながら母親に伝えようと思った。それで待っていた母親を見ると、明らかに怒った顔をしている。確かにすこし、長居をしたかな、でも、急いで返ってきたし、そんなに怒らなくてもいいのにな、と不思議に思っていたんだけれど、そんなのはお構いなしに、母親は早口でこう捲し立てたんだ。

どうして戻ってきなさいって、あんなに大声で叫んだのに、言うことを聞かないの! って。

どうも、あの僕が振り向いた時、母親はそう僕に叫んでいたらしいんだね。距離にして、多分30メートルもないんじゃないかな。普通の声でも、聞こえないことはない距離なのに。何度も何度も、戻ってくるよう叫んでいたそうなんだ。僕は、全然聞こえなかった。本当に、何も聞こえなかったんだ。

もちろんそんなことを信じてもらえるわけもなく、そのあとひどく叱られたわけだけど、どうかな。僕はいまでも、あれはとても不思議で、そしてとても怖いことだったんじゃないかって思う。母親の声の届かない所に、僕は足を踏み入れていたのかもしれないと思うと、ぞっとする。少しだけね。これが僕の、唯一体験した、不思議な話だよ。

喫茶店での二人の会話

「コーヒーが本当に美味しいのはね」
熱いカップを唇から離し、湯気の向こうの彼女はまっすぐに僕を見つめている。
「はじめの三分だけなんだって」

そうかもしれない、と思った。
彼女と知り合って、もう二年になるだろうか。いや、三年かな……? とにかく、今の僕には彼女の言いたいことが、なんだか分かるような気がしていた。

それから、この大きくもない喫茶店で、取り留めもない話をした。
出会ってすぐの夏のこと、初めて行った旅行のこと、そして最近の、本当に些細な二人の出来事なんかを。僕も話したし、彼女も話した。太陽は、すっかり真上に昇っていた。

温度を失い、小さなカップにわずかに残った黒い水面。店の控えめな照明が、ゆらゆらとそこに浮かんでいる。彼女はぐいと飲み干して、外を眩しそうに見つめながら、屈託なく笑った。
「でも冷めたコーヒーだって、おいしいよねえ」
そうかもしれない、と僕は言った。