街頭募金を見て考えた

 仙台の街中をボケッと歩いていたら「よろしくお願いしまーす!」っていう元気のいい声を浴びせられて、目を向けたら地元の高校生とおぼしき女の子が、被災地支援の募金をしていた、ということがあった。あった、というか、つい今日の話なんですけど。

 でまあ、僕はこういう手合いには絶対に募金をしないと固く決めているのですけど、それはなぜかと言うと、僕が彼女に募金したところで、何に使われるか分からないからです。恐らく、彼女も分かっていないのではないか。

 意地の悪い感じで言ってしまいましたが、もちろん、別にネコババとかそういうことを疑っているわけではなくって、きっとちゃんと、それは担任の先生の手に渡って、どこかの慈善団体か地方公共団体にでも預けられて、そこでよしなに使われるんでしょう。でも何に使われるんでしょうね。全然見えない。きっと彼女も見えていない。そんな謎めいたものに、時間と体力と精神力を削って稼いで家族を養って、そして残ったなけなしの小遣いを預ける気にはなれない、それなら自分で、何に使うかはっきり分かる直接送金したい、というのが率直なところです。

 そんなこんなでごめんね、なんて思いつつツッと通り過ぎまして、募金せずに残った手元の小銭でコーヒーを飲みながら、ツイッターなんぞで「なんで街頭募金なんかするんだろうね、自分でバイトして送金した方がよいのではないかね」みたいなことをポロッと書いたら、「いやいや、それがどうして、意外とご老人が気前よく振り込んでくれるんですぜ……」みたいな経験者の方からのリプライなんぞをいただいて、ほほう! と思った次第です。確かに、たまに高額紙幣が入ってたりしますものね……ご老人が多くなっている昨今ですし、意外と割のいい手法なのかもしれません。

 なかなかこういうことはちゃんと考えたことがなかったので、コーヒーをおかわりしつつ、街頭募金をなぜやるのかについてぼんやり考えたりもしました。もっとも大きな目的はもちろん「ターゲットにお金を届ける」ことですけど、それとは別に「自分の為にする」みたいな面も少なからずあって、だから学校なんかでボランティアと称して取り組んだりする。精神修養じゃないですけど、不特定多数の男女に手当たり次第声を掛けて、断られて、たまに現金を獲得して、ありがとうございましたー! 得られる満足感! みたいな感じ。それが自分のためだけでない、どこか遠くの不幸な人だったりするわけですから、得られる充実感もひとしおでしょう。そういう意味では、カジュアルな托鉢ですよね。托鉢と思えば、僕みたいな狭小な思考の持ち主でも、少し協力するハードルが下がるかもしれません。カジュアルな浄財。

 あとは手法的なところで、街頭でいきなり声を掛けられてお金を出す、あの辻斬りみたいなシステムがハードルを上げている気もしていて、ドキー! ってなってそのまま通り過ぎてしまう。みんなそんなに、お金出そうお金出そうとして街歩いてないよ。って僕なんかは思いますけど、先のご老人の件もありますから単に僕個人の問題なんでしょう。まあ、そんなことを考えたりもしました。コーヒーはうまいです。